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自分の感受性くらい×エイブラハムの教え 

こんにちは!
サラです。

こんな問いかけがありました。

「エイブラハムの教え“いい気分でいる”って、
道徳的な観点や社会的な観点は無視しているよね。
つまり、ネガティブな気分にさせる情報や人に関わらないようにしましょう。
“耳が痛い話”や“説教する人”も無視しましょう」って
そういうふうに言っているように聞こえるんだけど・・・

なるほどね。
確かにその通りなんですよね。(笑)

親や学校の先生、職場での上司、ご近所の年長者。
いろんな人が“説教”をよくしますよね。
時には、
「あなた(たち)のためを思って言っているんだから」という言葉を使う人もいます。
「ホントですか?」
「ホントにそう思って、今言っていますか?」と
サラは、学生時代、この言葉が口癖だった先生に
心の中で、突っ込みを入れてました。

というのも、
相手をコントロールしたくて“説教”をする人も沢山いるな・・・と感じていてからです。
自分の信じていることを自分の影響下のある人に信じさせるために。
威厳や力という自己顕示欲を満たすために。
自分のコンプレックスを正当化するために。

サラは、“耳が痛い話”や“説教”をする人が
いつでも、ネガティブな気持ちにさせる人になるかというと
そうではないと、
過去の経験を通じて思うに至っています。

その人が口に出して説教している言葉よりも、
その人がどんな気持ちで言っているかを
心は敏感に“感情”として受け取ります。

そこに愛情などの感情があるのなら
それは“耳が痛い”でも単なる“説教”でもなくなるのです。
すぐに従えないまでも、
反発するような強いネガティブな感情はもたないんですよね。

エイブラハムの教え
“感情のナビゲーションシステム”は
こういう局面でも道を示してくれるんだな・・・と思えます。

ガツンと怒られたとしても、
心地よい怒られ方って言うと変ですが
そんなものもあります。

サラの好きな詩人のひとりに、茨木 のり子さんがいます。
この人の詩集に
「自分の感受性くらい 」というのがあります。

その同じタイトルの
詩の最後に出てくるフレーズが大好きなんです。
それが以下のもの。

自分の感受性くらい、自分で守れ、
ばかものよ 。


傷ついた心。
自分の中に沸きおこるグズグズとした“いいわけ”に渇!を入れてくれる
愛情のあるフレーズだと感じます。
素直に、怒られちゃった!でもその通り!って
思えるんです。
特に、最後の“ばかものよ”が心に響いてきます。



自分の感受性くらい         作:茨木 のり子


ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ





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