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自己中心的哲学 

こんにちは!
サラです。

先日、ストイックなまでに“いい気分”という記事を載せたところ、
さららさんから、下のようなコメントを頂きました。


エイブラハムの教えは
>人のためにあるのではなく、自分のためにある。
>人を納得させるためにあるのではなく、自分の気づきのためにある。

この部分に思わず唸ってしまいました^^
全くそのとおりですね~

わたしは他人のドラマにひきずられることが多く、
その度に自分の立ち位置がぶれてました。
自分よりも他人を優先にしていたり・・(><)

まずは「自分」なんですね。
それはエゴでもなんでもない。
自分を大切にすると、いい気分になる。
そうするとおのずと良いことが引き寄せられてくるのかもしれないなぁ・・と


これに対して、私は次のようなコメントを返したのです。

そうなんですよね。
エイブラハムの教えは、「自分のためにある!」なんです。
そういう意味では、驚くほどに自己中心的な哲学なんですよ。
今までの道徳的観点の対極にさえ位置しています。
でも、その分、見事なまでにブレがないんです。

様々な思想や哲学も最終的にはこの未知なる存在からの教えに
帰着するのかもしれません


今日は、この件に関してもうすこし考察を加えたいと思います。

「引き寄せの法則」(金色)の226ページからのエイブラハムの言葉。
例によって難解なので、わかりやすく述べます。

あなたは社会の中で、他人との摩擦を恐れ、できるかぎり良好な関係を築きたいがために、一生懸命他人を喜ばせ、いい気分にしようとして、
逆に、自分で自分を喜ばせず、いい気分から引き離す羽目になる。

そして、最終的には、どんなにがんばってみたところで、他人を喜ばせることが出来ずに、ネガティブな気分に自分を追い込む。
(それでも、道徳的観点からすると、他人を喜ばせる事を美徳とする)
人生で出会う人はあまりに多く、その人なりの信念をもち、異なった意図をもって生きている。その人たちをすべて喜ばせる事など不可能なのだ。
(それでも、道徳的観点からすると、犠牲的精神は美しいとされる)

(人間の幸福という目的において)最終的に気づきを得た人は
他人を喜ばせ、いい気分にすることが出来ないという境地に立つようになる。
自分が望んでいるものを明らかにする術を磨くようになる

・・・・・・・・・ということをエイブラハムは言っているのです。

道徳的観念は、私たちが生まれてきた時から教え込まれたいわば信念です。

それは、人と上手くやって行くために
社会の中で調和を保つために信じ込まされた社会的通念でもあります。

でも、人と上手くやっていくために信じ込まされてきた
道徳的観念・社会的通念などによって、逆に、
自分と上手くやっていけない(いい気分でいられない)状態を招いていると
サラは思っています。

そして、自分と上手くやっていけない(いい気分でいない)ために
起こりえる数々の問題を抱えている人が、
周りの誰かに救いを求めてしまっているわけです。

その人は、道徳的観念・社会的観念の信者ですから、
その信者ゆえにいい気分から引き離されているわけですから、
“いい気分”信仰を説く人たちは、
その人の信念を揺るがす人として弾圧されてしまうわけですね。

弾圧にあった人は“いい気分”でいられないわけですから
その人でさえも望まないものを引き寄せ始め、
同じように周りの誰かに救いを求めてしまうわけです。

これは信念体系でのいわば悪循環。パラドックスです。

また、道徳的観念・社会的通念の背徳者は
利己主義という批判をうけることもあり、
感受性豊で善良な人ほど、罪悪感などの気分をもたされてしまい、
さらに“いい気分”から引き離されてしまいます。

ですから、
サラはこのエイブラハムの教え
周りにいる人たちの問題解決に適用することや共感を得る事を
避けるほうが賢明だと思っています。

また、この教えを表明する事で、他人のドラマにかかわり始めると
隠れキリシタンにつきものの“踏み絵”がお待ちかねです。

つまり、そう、それを証明させられる場に立たされるわけです。
懐疑的な人たちの中で、
まったく“いい気分”から引き離された自分で対応する事になるのです。

(スプーン曲げができる少年をテレビに出して、俺の目の前でやってみろ!)って感じです。
結果は明らかです。


他人のために適用できる道徳的教えではなく、自分のためだけの哲学である限り、水面下でということは踏み絵を避けるためにも大切です。
・・・・・・・・という事で、他人のドラマに引きずられたくないサラは今日も隠れキリシタンなのでした。ちょん♪



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コメント

サラさん

こんにちは、「引き寄せの法則」のブログからきました。

エブラハムの教えを深く考察して、わかりやすく書いてくださって、ありがとうございます。

今日のも、そうか! と謎が解けた気分です。

私も、「隠れキリシタン」(インパクトのあるいい喩えですね、忘れない) でいきまーす♪

いい気分度が上がりました。

サラさん、ありがとうございました。

レモンライムさんへ

レモンライムというお名前。
なんて爽やか!
それだけでサラはいい気分になってしまいました(笑)
隠れキリシタンでいることは、「自分の信じていること、やっている事を他人に正当化する必要は無いのだよ」というエイブラハムの考えにも通じるのではないかと思います。

ひえ~~^^;

記事にわたしのコメがv-356v-356
なんか恥ずかし~~~い" "(/*^^*)/


・・・でも思うんですよ。
エイブラハムの教えに出会えて良かったと^^

それを知らずに「道徳的観念、社会的通念」のままでいたのなら、
もっと自分を追い込んで、
きっと生きにくい人生になってたかもしれません。

今日も良いお話ありがとうございます^^

さららさんへ

ありがとうございます。
さららさんのコメントを記事にしたのは、他人のドラマに引きずられる人が実はとても多いと思えるからです。感受性豊かで善良な人ほどそうではないかと思います。また、道徳的観念、社会的通念のみに忠実で、自分をいい気分や幸せから引き離す事も多いように思えるのです。
この記事をアップロードした数日後に、テレビで流れていた訃報を見ました。(ちなみに、サラはほとんどテレビを見ません)その方は、芸能界をやめ、介護などの重荷を背負い、自殺をしたとのことでした。
道徳的であり、犠牲的精神を尊び美しいとする観念は、とても優しく善良な人を“いい気分”から引き離し、追い込んでしまうように思えるのです。まずは「自分ありき」だと感じます。

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